2007年05月13日

“皇女・三条華子−武田信玄夫人”

『皇女・三条華子―武田信玄夫人』(著・高野賢彦)なる本を図書館で偶然見つけたので資料として読んでみました。

著者は『信玄の妻・円光院三条夫人』(著・上野晴郎、新人物往来社)を読んで影響を受けたそうです。
うーん、こちらも読まねばなりませんな。

まずタイトルの『皇女・三条華子』の三条夫人の『華子』という名は著者が資料として読んだ『お湯殿の上の日記』(続郡書類従完成会)に「はな」「花」と記載があるところから著者が命名したものだそうです。



この本によると三条夫人こと「三条華子」は転法輪三条家の二女(父・三条公頼、母・観修寺尚顕娘)といわれているが、実は

後奈良天皇(知仁親王)と典待具子(ともこ・広橋大納言守光の養女)の間に生まれた皇女

であると言うのです。

うーん、ちょいとウィキペディアで調べたのですが、後奈良天皇の典待に広橋具子なる人物はおりません。
しかし広橋国子(第七皇女・聖秀女王生母)なる人物はいました。
同一人物の可能性高し。


皇女・華子は父・知仁親王が践祚すると、門跡寺院曇華院に入り、十年ほど過ごした後、父帝の意向で還俗し、父帝生母の甥である観修寺尚顕の娘を妻としている三条公頼のもとへ降下した、
と書いてあります。

三条夫人が武田晴信に輿入れしたさいに、彼女が乗っていた輿には三条家の梨花の紋ではなく「菊花紋」が刻まれていた、というのは知っていました。

皇室から許されて使用した、とは言い難く(←だって貸してくれるから使うなんて簡単なものじゃないし)、ちょっと疑問に思っていたのですが、本人が「皇女」であれば問題ないですな。

皇女・華子は勅命により武田家に嫁した、となっています。

皇女が戦国大名に嫁ぐなんてあるかな〜???

しかもそうすると三条夫人の産んだ子どもたちは、公に皇室に許された「皇孫」となります。
うーん、「皇孫」を××のうえ××なんてできるかな〜??

とにかくこの本は小説としてより「資料」として読むものだと思います。

武田家に嫁してきた華子を待っていたのは、

舅・信虎と夫・晴信との確執。
晴信の妹・禰々の苦悩死。
次男・次郎の失明。
三男の早死。
義父・三条公頼の横死。
諏訪御寮人との確執。

そして死にいたる苦悩となった長男・太郎義信と夫・信玄の確執。

長女黄梅院の狂乱死。

絶望の淵でじっと耐え忍ぶ華子。

しかしついに気力は落ち・・・・。

位牌にも「菊花紋」がしるされているそうなのですが・・・。


この本を読んでわたしは「信玄の死」「胃潰瘍」説をとることにしました。
長男・義信のことは彼にとっても死にいたる苦悩であったと思います。

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posted by くみ at 23:00| 静岡 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 読書(文芸・評論) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
くみさん、こんばんは!
ご無沙汰してますm(_"_)m
このところ色々と忙しくて「風林火山」もなかなかゆっくりと見る間がなく、でも続きが気になって感想拝見しにお邪魔しました(^^ゞ

そしたら…びっくり!
三条さまについてをメインに書かれた本があるんですね。
さすがです、くみさん!!
私もものすごく気になって、ドキドキしながら記事拝見しましたよ〜。
三条さま、皇族(可能性)とは…いやはやびっくりしました。
でも確かにくみさんの仰るように、菊のご紋をみだりに貸したりはしませんよね。
そんなことしたら権威の面もあるけれど、なにより他の公家の反応もありますし…。
甲斐の武田家は屈指の名門ですが、だからといって皇女が武家にってのも…??
なんにしても三条さまはなんだか謎の多い姫ですね。
私もこの本ぜひ探してみます!
Posted by かの at 2007年04月13日 02:40
かのさん

おかえりなさいまし〜。

「チェコスロバキアで三味線演奏」と読んで、かのさんって何者!?と思ってしまいましたよ。

あ、この本ですが、偶然図書館で見つけました。

まずタイトルにびっくりしました。

この本によると、三条夫人の生母である具子(水無瀬家の娘)はもともと掌侍であり、皇女(三条夫人)を産んでから典待に昇進、広橋家の養女になってます。

うーん、「内親王宣下」を受けていない皇女だったら歴史に名前の残っていない人も山ほどいたと思いますし、どうでしょうね〜。
Posted by くみ at 2007年04月13日 20:15
なるほど・・・輿と位牌に「菊花紋」があったとは・・・。
仮にほんとうに皇女だとしたら、
信玄がその立場を領土拡大に利用してそうな気がします。
畿内の名家にならばもしかして・・・ですが、甲斐源氏の名家とはいえ、甲斐に皇女を、というのは
考えづらいかな〜と思います^^;

そうは言っても完全に否定できないのも、
歴史の醍醐味ですかね^^
Posted by 元康 at 2007年04月13日 21:25
元康さん

三条家の養女となった時点で表向きはあくまでも「三条家の姫」として扱われたのなら、ありえるかな〜とも思います。
後奈良天皇の第六皇女が不明でして、その可能性もあるわけです。

当時の皇室も公家も貧乏ですから、裕福な戦国大名の「金」目当てか??

謎ですが、「可能性」があるってすごいですね。
Posted by くみ at 2007年04月14日 10:50
お邪魔します。
三条夫人の後奈良天皇皇女説は、知る人ぞ知る話ですね。
さすがに、皇女が戦国大名に嫁いだ例はありませんが、伏見宮親王の息女ならば、土佐一条家に嫁いだ例があります。
これは私個人の推察に過ぎませんが、武田氏を保護した徳川家が、将軍家に皇女を嫁がせたいが故に、【先例】として信玄の正室は皇女だったと、創作させたのではないかと考えています。
というのも、足利将軍家とその連枝を差し置いて、山奥の大名に皇女が嫁ぐなど、あり得ないはずですからね。
Posted by Y子 at 2012年11月13日 22:26
Y子様

コメントありがとうございます。

>【先例】

なるほどなるほど、それは納得できる推察ですわ。
歴史というものは、後の権力者に改ざんされがちですものね。
Posted by くみ at 2013年04月29日 20:20
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