二代目土佐藩主・山内忠義は掛川生まれだそうです。
掛川五万石を拝領したとき、一豊は秀次の宿老だったりしたため、掛川の留守居を弟・康豊にまかせていました。
それでもちょくちょく来ていたらしいです。
一豊は領地・掛川の今で言う「下垂木」(しもたるき)で鷹狩りをしていたそうです。
で、その休憩として、いつも使うのが、その土地の豪農「中村家」
ある日、一豊が「中村家」で休憩中、早馬が来ました。
「ただいま、康豊君に男子ご誕生でございます」
一豊は「それはめでたい!」ということで、その中村家当主に「名前」をつけてくれるよう頼んだそうです。
で「国松」と命名された、と。
その中村家と土佐に行ってしまった山内家の交流は続いたそうです。
一豊や忠義からの書状が残っているそうです。
その「中村」さん。
いまも掛川市下垂木にいらっしゃいます。
続いてますね~。すごいですね~。
あそこの辺り「中村」さんが多いので、どのお家かわかりません。
私と母は「あの家じゃない?」と、とある大きなお宅だと目星を勝手につけております。
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地元ならではの話題で、楽しく読ませていただきました。
下垂木に沢山の「中村家」があるとか。
分家して増えていったのでしょうね。
やっぱり一番大きなお家が本家でしょうね。
そうか!?分家か!?
そうですよね~。
今、気がつきました。
そこのお家のご主人、自費出版でなにやら出版されたそうです。
江戸時代前から「掛川」に住んで、まだお家が続いているってすごいですよね~。
掛川って名前は「懸川」で室町時代より前からあるらしいですが。
あ、私の家は明治ごろに今の家の土地に引っ越してきたのです。
ちなみに私の住んでいるところは、一豊くん時代は「堀」または「池」、運がよければ「武家屋敷」です。
「町」じゃなかったんですよ。