諸田玲子氏の作品、好きだなぁ。
徳川家康の最初の正室「築山殿」を主人公にした「月を吐く」では、いままで通説となっていた「悪女説」を覆すような、「築山殿」を描いてくれました。
この「仇花」は、徳川家康、最後で最年少の側室「お六の方」の生涯を描いた作品です。
歴史小説で、彼女に意思を持たせて書かれたものは、おそらくないでしょう。
そういう女性を主人公にした、諸田玲子氏の視点が好きです。
「お六の方」は、家康が晩年に最も寵愛したといわれる、「お勝の方」の部屋子でした。
家康の寵愛を受けるようになったのは、13、14歳。
当時、69歳だった家康は、その頃、新しい側室をとろうとはしていませんでした。
晩年に寵愛した、お勝の方、お万の方、お亀の方、お奈津の方、はいずれも歳が近く、それでもすでに30歳前後になっていました(誰かを忘れているような気が)。
主君が家臣に側室を与えることはよくあることで、お梅の方は、本多正純に再嫁しています。
晩年の家康は、老いた自分の後を追い、若い側室が尼になるのは哀れと思ったのか、あっちにやり、こっちにやり、しています。
そんなときに、何故、最も若い「お六の方」に手をつけてしまったのか??
そこが、創作の部分なのですが、
なるほどねー!!
と、思ってしまう理由があるんですよ。
上手いな~!!と感心してしまった。
「兄さま。お六はね、お城に住むの。欲しいものはぜんぶ手に入れるの」
わずか10歳の小娘であったがお六は本気だった。
可憐な美貌に、愛くるしい笑顔、小柄な身体。
しかし、彼女はとてつもなく大きな野心のかたまりであった。
お六は、元北条家の家臣で、後に太田家家臣となった、黒田五左衛門直陣の娘です。
当時の江戸は、家康が城下町の体裁を整え、活気付いてきた頃でした。
黒田五左衛門と同じく、元北条家家臣であった江戸與兵衛の娘が、家康が晩年に寵愛した「お勝の方」でした。
「お勝の方」はもともとは「お八」という名前でした。
家康に使えてからは「お梶の方」と名乗っていましたが、関ヶ原の戦いで東軍が大勝して以来、「お勝」と名乗るように命じられたそうです。
つまり、名前からして、「勝ち組」なわけです。
幼いお六は、お勝の方に憧れ、そして、お勝の方よりも激しい気性と、大それた野心を抱きました。
わたしはお勝になる。
お六は、幼いながらに計画を立てるのです。
行儀作法を習い、書や和歌や習字を習い、自分の美貌に目をつけた、庄司甚右衛門を後ろ盾にしてしまいます。
庄司甚右衛門といえば、あの「吉原遊郭」を作り上げた人物です。
そして、13歳で、とんとんとお勝の方の部屋子となり駿府に行くことを自分で決めてしまいます。
「欲しいものを全部手に入れる」という目標に向かってまっしぐらな姿勢は、感心もしますが、あきれもします。
家康を「肥満した異相の老人」と決め付けながらも、虎視眈々と寵愛を受ける機会をうかがうお六。
あんた、ほんとに13歳か!?と思うほどです。
家康の心を動かしたのは、お六の烈しい気性でした。
家康は、過去に自分を翻弄した女のことを思い出します。
愛憎と紙一重だった女・・・「最初の妻」です。
お六は家康の心をつかみ、寵妾として世間の評判になります。
『佐渡どの、雁どの、お六どの』
家康の寵愛ひとかたならず、家康をはばかるものは、本多佐渡守正信、鷹狩りの雁、そしてお六。
しかし、貪欲なお六はそれ以上のことを望みます。
家康の子が欲しい。
子をもうけて、お腹さまとなり、子か孫かひ孫か、我が血筋が天下人に。
そして、兄を大名にし、黒田家の再興を。
しかし、その栄華は長く続きませんでした。
家康亡きあとも、なんとか這い上がろうとするお六。20歳。
ここまでくると、その向上心を見習いたくなります。
彼女は、家康を失ったのち、いったんは尼になりますが、のちに喜連川足利家に嫁ぎます。
29歳という若さで亡くなったのは、尼になるのを拒んだ神罰だと言われています。
ほんとうに、彼女はわがまま娘なのですが、最後に大切なことに気がつくようです。
彼女は、駿府にいたときも、いずれ隠居した父を駿府に向かえ、家族そろって暮らしたいと考えていました。
大それた考えを抱いているわりには、親孝行な娘でした。
「良い暮らしをしたい」
その願いが彼女に大きな野心を抱かせることになったのですが、また、大切なことを思い出させる鍵でもあったのです。
意外な展開で、読後はすっきり。
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ラベル:本